【金スマ】YOSHIKIの幼少期からの生い立ちは壮絶!父親の死から現在まで(画像)

こんにちは、ままいっちです。

YOSHIKIさんはコロナ感染で自粛でステイホームと言われている中、さまざまな声をあげられています。

なぜ、こんなに一生懸命訴え掛けられているのかと思うと、実は生い立ちにあったようです。

YOSHIKIさんの生い立ちや幼少期、父親の死につていの真相

また小学校、高校時代、現在に至るまでををご紹介させていただきます。

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YOSHIKIさんの幼少期の生い立ち

YOSHIKIさんの幼少期をご紹介させてただきます。

YOSHIKIさんは、1965年11月20日(54歳:2020年4月現在)に長男として誕生しました。

本名:林佳樹といいます。

実家は千葉県館山にある、老舗の市呉服屋を営んでいました。

弟さんは、5歳年下で、2000年のテレビドラマ「やまとなでしこ」に出演されていた、元俳優の林光樹さん。

現在は、芸能界を引退し、YOSHIKIさんのマネージャーをされているそうです

YOSHIKIさんの家は、何不自由ない裕福な家庭で育っていました。

幼い頃のYOSHIKIさんは、体が弱く、小児喘息も患っていて発作が送るたびに入院生活を送っていました。

虚弱体質で入院生活を良くしていたそうです。

母親の言葉で、「多分大人になれないんじゃないか」ってぐらい思って、「いつか死んじゃう」んじゃないかみたいにと母親は思っていたそうです。

そんな虚弱体質なYOSHIKIさんに、とても愛情を注いだのは、父親だったといいます。

父親はプロのタップダンサーだったらしく、母親がそれを見に行って、結ばれたと聞いています。

格好良く、ジャズピアノを弾いていたそうです。

父親は呉服屋を営む以前は、映画俳優としてスカウトされたこともあり、ジャズやクラッシックなど音楽に精通する一方で、日本刀の収集が趣味など多彩で行動力が溢れる父親でした。

寝た切りで外で遊べないYOSHIKさんに、父親は毎日何かしらYOSHIKIにオモチャを買ってきてくれて愛情をくれていたといいます。

ほぼ毎日がクリスマスのようだったといいます。

YOSHIKIさんが4歳になると、ピアノを弾きたいとYOSHIKIさんがいいます。

昭和40年代はピアノは家庭になかった時代でしがた、父親が「待ってろ」といい息子が元気になってくれるならばと思い、両親はすぐにピアノを買ってくれたと言います。

その後、近所のピアノ教室に通うと、その腕前は、メキメキと上達していきました。

将来はピアニストになりたいと言っていました。

父親に褒められたい一心に、夢中になり鍵盤を叩いて練習しました。

お父さんが毎月クラッシックのレコードも買ってくれたそうです。

それをいつも聞いていて、なんとなくその歳から自分はピアニストになるんじゃないかと思っていたそうです。

体は病弱ですが音楽の才能をみせていました。

そんな息子に、誕生日にはトランペットをプレゼントしてくれ、毎年誕生日にはギターやトランペットなど新しい楽器のプレゼンが恒例になっていました。

そして益々音楽にのめり込んできまいた。

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小学校時代

その後、小学校に上がり、少しずつ大人になっていくYOSHIKIさん

父親は趣味の刀や車の話など、まるで友人のように何でも話してくれたそうです。

YOSHIKIさんが最初にデビューして買った車がロールスロイスだったそうです(当時25歳)

父にライブに連れて行ってくれた時に、ロールスロイス見て「この車乗りたいんだよ」っていうのを覚えているそうです。

そして想いは、父のようになりたい、YOSHIKIさんにとって常に父親は憧れの存在でした。

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父の死

小学校5年の夏休みにYOSHIKIさん10歳の時に父親と突然の別れが訪れます。

夏休みだけど、楽器の練習をしに学校に行っていました。

何もなかったけど、その前の晩、「お父さん帰ってこなかったみたいな感じだった」といいます。

父がいないこと以外は、いつもと変わらない朝でした。

しかし、楽器クラブの練習が終わり、帰った家はそれまでと全く変わっていました。

家におそるおそる入ると、目に飛び込んできたのは親族たちの泣く姿の目線の先には父の姿でした。

みんな何か泣いているので「あ、死んだんだ」と子供ながらに思ったそうです。寝てるんじゃないだなと・・・

お父さんは病気なんだよ、疲れて寝てるから今は起きられないんだ!と親族の言葉

うそだ!!なんで嘘つくんだと叫んだそうです。

暴れまくって何があったのか、よく分からなくなったといいます。

享年34歳でした。

その時に父親の死因は、心臓発作と聞かされていましがた、衝撃の事実をききます。

夏休みが過ぎても癒えることのなかった気持ちで、「生きてるって何?」ってことを考え初めました。

「なんで僕は生きてて、父が死んでるの?」と考えたそうです。

YOSHIKIさんは小学生にして、死に方の本を読みあさり、どういう死に方をしたら楽に死ねるのかなど、考えていたといいます。

ただ、弟もいるし、母のいてるし、長男なので、「自分がしっかりしないといけない」のかなと思っていました。

母親の存在

そんな時に、考えを変えてくれたのは母親の存在だったといいます。

母親は亡くなった父親に変わって、女で一つで店を切り盛りし、辛い思いでをしないように、遺品は写真一枚を残してすべて処分されました。

休みの日には、YOSHIKIさんたちを外に連れ出し遊びに連れていってくれたりしました。

母親はとても頑張ってくれたといいます。

そんな心中も察したYOSHIKIさんは、他の子が父と仲良くしている姿をみても、父の事を封印していたといいます。

どんなに明るくふるまっても、明るく心の傷は癒すことができなかったといいます。

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小学校で運命の出会い

YOSHIKIさんの人生を変える運命の出会いがありました。

それは行きつけのレコード店だったそうです。

だいたいいつもクラッシック音楽コーナーに行き、お目当ては大好きだったベートーベンなどのクラッシックですが、この日はめずらしく気になるジャケット1枚があました。

アメリカのロックバンド:KISSのレコードでした。

この人達なんでこんな格好をしているのだろう~と思ったそうでう。

興味本位で聞いてみると、激しいギターとドラムがYOSHIKIさんの体を熱くしたといいます。

そういう抑えきれない感情みたいなものが破られたといいます。

父が死んだ後、心の中で爆発するものが生まれて、ずっと病院に入院していたので、「病室の中でこの壁をぶっこわしたい!なんで自分はここに閉じ込められてるんだ」みたいに、体が悪かったけども抑えきれない感情があったといいます。

それをロックが吹き飛ばしてくれた気がしたといいます。

呉服屋の自宅で、母親に頼みこみ、ドラムセットを購入してもら、ドラムを叩いていました。

とりあえず叩いて発散するみたいな感じで当時は叩いていたそうです。

 

10年後から聞いたことで「父もドラマーになりたかった」「それも父の夢だった」母親から聞きます。

父の人生を追うかのようにドラムに熱中していました。

小学校で海外のロックの話をするが、誰も知ることはなく、そこで唯一話相手だったのが、幼稚園からの幼馴染の友達と意気投合しました。

それが出川利三ことToshiでした。

二人で長く語りあった頃が一番仲良くなった時だそうです

これをきっかけにバンドを組むことになりました。

YOSHIKIさんがリーダーを務め、Toshiがギター担当の小学生バンド「DYNAMITE」を結成しました。

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YOSHIKIさんの中学校時代

中学校に入りバンド活動を熱心取り組んでいました。

そして中学校ではToshiと一緒にブラスバンド部に入りました。

ブラスバンド部ではトランペットを担当していました。

勉強と部活を両立させる模範的な生徒でした。

ところが、学生生活を一変させる出来事が起こります。

 

髪の長さが校則違反だと、教師に指摘され、無理やりバリカンで刈られました。

キューピーのようになって、みんなに「かわいい宇宙人」みたいにと言われて泣いていたそうです。

その時に芽生えた絶対に先生の言いなりにはならない!!と、この出来事がきっかけで反抗心が芽生えてきて、反発するようになりました。

いつしか、学校一番の不良と知られるようになりました。

その時に反発している一番の理由は、「ロック=不良」のイメージがあり

その当時「ロックなんてやってるやつが・・・」と言う先生に、「何がいけないんだ!!」と思っていました。

ドア蹴とばして教室出ていったみたいな悪循環だったそうです。

ロックにのめり込むことで、父の死から立ち上がろうとしていたYOSHIKIさん

心の闇をドラムと、怖いもの知らずで、喧嘩をし問題を起こしていました。

そんな時に地獄へと突き落とす出来事が起こります。

父の死の真実

心の奥に封印していた父の死のことでした。

親族が語っている時に、「あの時は驚いたよな、あいつがまさか自殺するなんてな~」との言葉でした。

お父さんは病気だと聞かされていて、心臓発作ではなく、自殺だったんだと衝撃が走ります。

車の中に排気ガスをひき込み自ら命を絶ったといいます。

理由は一切不明で、誰もわからなかったといいます。

「なんで?」って言う、その答えはわからない、だから一生その疑問を持って生きていかなければいけない

疑問と悲しみと苦しみですね。

現在も、鮮明に当時の事を覚えていて、考えたら魘されることもあるそうです。

1%の辛さが99%を黒く覆ってしまうそうです。

父にはなんとなく「負けるなよ」と言ってくれるような感じがすると言っていました。

 

そして当時は怖いもの知らずで、毎日喧嘩に明け暮れていました。

問題を起こすたびに母親が呼び出され、教師も困り果てていました。

教師が困っていたのは、YOSHIKIさんの扱い方でした。

・まともに授業に出ていないのに、成績は常にトップクラス

・年に一度行われる千葉県の模試で唯一数学で満点

・クラッシックも見事にピアノで演奏

不良なのか優秀なのかどっちが、本当のYOSHIKIさんなのか?

普通にしていたら優等生だけど、なぜあんな二面性があり先生が悩んでいたそうです。

二面性の裏には、母と約束がありました。

・何をやってもいいけど、ドラックやシンナーには手を染めない

・窃盗や人を傷つけない

・受験勉強はしてね

と言われていたそうです。

母にとりあえず「勉強はしなさい」って言われたので、そこだけはしていたと語っていました。

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YOSHIKIさんの高校時代

高校は県内優秀の進学校へ進みます。

高校に入ってからは、さらに反抗的になったそうです。

入学式当日にやったことは、「文句あるやつは、出て来い、いつでも相手になってやるよ」といったそうですが、進学校に行っているので、場違いでした。

YOSHIKIが通う高校にはToshiさんがいてました。

Toshiさんは体育系で、頭も丸坊主でバレー部にいました。

 

1982年高校2年の夏、新しいバンドを結成します。

歌のうまかったToshiさんをボーカルに抜擢し、新たなバンドを結成します。

そのバンド名をXにしました。

辞書で調べたら、Xは無限の可能性という意味がることを説明します。

それが、XーJPANの始まりになりました。

高校時代は喧嘩とバンドに明け暮れたYOSHIKIさんでした。

 

高校卒業が近づくにつれて、高校の進路を考える時期がきました。

自分の将来を心配していた母親は先生に相談もしていました。

そんな進路に悩んでいた時に、いつも弾いていたのは、ピアノでした。

「将来はピアニストになる」といっていて、悩んだで決心したのは音大に行くことを決心しました。

その日以降、受験勉強に励み、暴れまくっていた不良とは別人になり、高校の推薦で音大への新学が決まりました。

 

そんな高校の冬休みにふいに自宅に尋ねてきたのが、バンドメンバーのToshiさんでした。

これから先俺たちどうする?

その直前に出場したヤマハのコンクールで、ベストドラマー賞を受賞して高い評価をもらっていました。

もらったことで、自分たちには大きな可能性があるのではないか?と感じていて

Xで日本征服、いや世界征服しよう

と音大の新学を捨てて、ロックの道を選ぶことになります。

母は猛反対したが、息子が一度決めらら決心を変えないことを知っていました。

 

ダメだったら死んでやると、死という感情が常にあったといいます。

卒業アルバムに書いた言葉は X の一文字だったそうです。

勉強はやはりしたそうです。友達のバイクとかで後ろに乗って、英単語帳も見ていたそうです。

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千葉県から上京

1984年千葉県から上京しました。

その当時の音楽はザ、ベストテンなどアイドル全盛期でした。

ロックバンドが売れるためにはどうしたらいいか?

Yoshikiさんの発案で、メンバー全員は金髪に、メイクも衣装もド派手な衣装となります。

メンバー5人が揃うと、全員の前でYOSHIKIさんは言います。

・必ず成功させる 俺についてこい

・夢は日本一のロックバンドになる

ワゴン車一台で、全国のライブハウスを周り、ホテル代がなく野宿をし夜を明かしていました。

いつも一緒にいるメンバーは、いつしか家族の存在にもなっていました。

夢に向かって進んでいて、あまり細かいことは気にしなかったそうです。

公園で寝て蚊に刺されたりもしたこともあり、地道な活動が続きました。

どんどん地名度をあげてきていました。

そんな時、アルバムを出そうと提案しますが、自費で1000万かかるといいます。

諦めきれないYOSHIKIさんは、母親に1000万円貸してほしいといいました。

その時はバンド辞めたらって断られ電話を切られましたが、母はYOSHIKIの可能性を信じ、翌日振り込んでくれたといいます。

こうして、アルバムを作ることになりました。

1988年4月「Vanishing Vision」は1週間で1万枚が完売し、インディーズチャートで1位になりました。

YOSHIKさんを信じてくれた母親のお蔭でした。

「音楽よりも馬鹿げた格好で売っているバンドX」と派手で過激で中身が無いと評判が悪く掲載されていました。

そんな中、評判が悪かったことに目をつけた人が居てました。

ソニーレコードの津田直士さんです。のちにXのプロデューサーになります。

売れなけば死ぬというYOSHIKIさんから、異常なまでの熱を感じていました。

目の前に白いシャツを着て現れたYOSHIKIさんに、超常現象とか全然見ないけど、胸に鮮血が見えたといいます。

超常現象とかは全然見えないけど、胸に本当に鮮血が見えたといいます。

ちょうど心臓のあたりに・・・考えたら幻覚だけど、なんだろうと思っていました。

YOSHIKIさんの持ってる「命がけのエネルギー」普通の言葉でいうと「殺気」の現れだったのではなかったのか?とも語っていました。

まず、本当に中身の無いバンドなのか?を覆すため、頑張っていました。

そして、津田さんはYOSHIKIさんがメジャーデビューに向けて作っ曲に衝撃を受けまいした。

それが、「ENDLESS  RAIN」でした。

60万枚の大ヒット

幼少の頃から父が聞かせてくれたクラッシック、培った才能が花が開きました。

その後は積極的にテレビ出演し、ロックを歌謡曲と同じ土俵に立たせるという信念のYOSHIKIさんの活動が広まってきます。

そしてビジュアル系バンドという地位を確立します。

翌年には武道館公演、デビュー3年目で東京ドーム公演を果たしました。

若者の間ではコスチュームも似たようにしたり、X現象を巻き起こすくらいに人気になりました。

X JAPANの夢へ挑戦

悲劇のはじまりは、YOSHIKさんの夢の世界への挑戦からでした。

いきなり大きな目標を立てすぎてしまって、それがある種のバンド崩壊に繋がって行ったんじゃないかとも語っています。

世界進出に向け、日本での活動休止を発表しました。

国内ラストライブは12万枚のチケットが即日完売しました。

そして国内ラストライブを6日後に控えた1991年大晦日、紅白歌合戦に初出場します。

その時にYOSHIKIさんは、たった一人辛い決断をしていました。

紅白が終わった直後、TAIJIをクビにするということを伝えると殴り合いにもなったそうです。

そして、その後にメンバーを朝の元旦の5時とか6時頃に集めて、理由を話したそうです。

もし違うと思ったら辞めてもらってもいいと、みんなは納得したそうです。

TAIJIをクビにした理由はバンドを決めていた約束を破ったそうです。

1992年東京ドームの国内ラストライブ

このバンドを最後にTAIJIはバンドを辞めることになります。

お客さんはこれが最後だと知らなかったといいます。

その時はさまざまな想いをよぎり、涙が止まらなかったそうです。

そして新メンバー(HEATH)を迎え、X JAPANに改名して新たに世界へ向けてスタートしました。

X JAPAN 海外進出

1992年8月25日のアメリカでの記者会見

アメリカで成功した例はありません。無理では?

音楽に壁や国境なないと信じています。

英語を母国語としないバンドが成功する訳がない

と海外メディアの評価は厳しい意見でした。

 

それから、X JAPANとして初のアルバム制作にとりかかりました。

日本に入れば大スター、アメリカに居ると、駆け出しでもない駆け出しにも至らないバンド

その狭間を彷徨っていました。

理解するどころか「なんでできないの」って、強引に引っ張ていかなきゃないけないと思ってたけど、強引すぎたのかとも。

そしてレコーディングは1年以上続いたといいます。

X JAPANは解散

友人のToshiの脱退、9月22日をもってX JAPANは解散することになりました。

その後、解散ライブは大晦日の1日だけ行うことになり、発売された52000枚のチケットはわずか2分で完売しました。

1997年12月31日YOSHIKIさんは最後のライブに向かいました。

hideさんの死

その後、解散翌年にギターのhideさんはソロ活動をスタートします。

大ヒットを飛ばし、人気を集めていました。

hideさんとYOSHIKIさんは、こんな約束をしていました。

「新しいボーカル見つけたら、Xを再結成させて今度こそ全米デビューを果たそう」と約束していました。

2000年になったら再結成しようと約束し世界進出を諦めていませんでした。

 

しかし、解散ライブから5ヶ月後に1998年5月2日信じられない連絡が入ります。

日本からの緊急の電話がありました。

知人から知らされたのは、hide(33歳)が亡なったと。

嘘だと思っていました。

しかし行機の中でニュースが流れ、命を絶ったというニュースでした。

空港には帰ってきたYOSHIKIさんをマスコミが待ち構えていましたが、コメントもする気にはなれなかったといいます。

hideさんとは、元々別のバンドで活動し音楽の道を諦め、美容師になろうとしていたhideさんをYOSHIKIさんがXに誘いました。

XでいるときはYOSHIKIとう屋台骨があってボスがいて、僕基本的にXをやっていたのは、YOSHIKIの魅力による所が多きい

再結成を約束していたのに何故?悲しすぎる再会でした。

 

そして、hideの死を知り、ファンの少女たちの後追い自殺が多発しました。

その死の連鎖を止めるには、YOSHIKIが呼びかけるしかありませんでした。

YOSHIKIが会見をしました。

今回、突然の彼の死を聞いてとてもショックです。今もまだ信じられない気持ちです。

この悲しみを、とても言葉などでは表現できませんが・・・

ただ、今こうなってしまった以上、僕らは現実をしっかり受け止めなければならないと思います。

ファンのみんなも頑張ってください。いつも僕らを励まし、彼の永遠の眠りを温かく見守ってあげてください。

1998年5月6日の告別式

訪れたファンは5万人で、隅田川に沿って並びその列は2キロまで延びていました。

とてもファンの方たちの悲しみで溢れていました。

それが、YOSHIKIさんの人生において大切な人の死でした。

解散からわずか5ヶ月後の出来事でした。

 

その後、一人ロスに戻って限界がきていました。

僕がhideさんを誘っていなければ、生きていたんじゃないか?と当時は考えていました。

自分が作ったXは何だったのか?

そしてYOSHIKIさんは二度とステージには立たないと決意します。

 

YOSHKIさんはHIDEさんの死の後にロスで精神科みたいなところにも行って通っていたそうです。

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転機が訪れる

hideさんの死から転機が訪れたのは、天皇陛下の為に曲を作ってくれないかということです。

陛下の前でのピアノ演奏の依頼でした。

●1999年11月12日ピアノ演奏曲で「Anniversary」出演

8分間のピアノ演奏曲で「Anniversary」でした。

2年以上ステージに立っていない!大丈夫か?

相談したのは実家の母でした。

「もちろん大変でしょうけど、そんな大役頂いたことに感謝してやってみたら」

の言葉に決意しました。

一気にメロディがあふれてきたといいます。

●2005年「愛・地球博」の公式テーマ曲をプロデュース

作曲家としても不動の地位を築きました。

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XJAPANを再結成と活躍

2007年のある日、Toshiさんから連絡がありました。

2度と会う事がないと思っていたので驚き、逢う事になりました。

解散し告別式以来で10年ぶりの再会でした。

その時にYOSHIKIさんがToshiさんに聞かせた歌が、hideさんの亡くなるときにhideさんの為に作り封印してた歌でした。

それが、「Without You」でした。

hideさんが、僕らをまた合わせてくれたんじゃないか?って思いました。

2007年XJAPANを再結成しました。

2008年には再結成コンサートを行いました。

その時には特殊映像にて、実際にhideさんが居てるかのように演出され、5人でのXJAPANコンサートが実現しました。

2010年の横浜公演では、TAIJIさん18年ぶりに共演をしました。

昔とからわず演奏で会場を盛り上げましたが、TAIJIさんは2011年7月享年45歳でサイパンで自ら命を絶ったといいます。

旅だってしまった二人のメンバーですが、YOSHIKIさんは立ち止まることはなかった。

2012年には米「ゴールデングローブ賞公式テーマソング」を作曲

2014年ロックの殿堂「マディソン・スクエア・ガーデン」でコンサート

2017年ロックの殿堂「うぇんぶりー・アリーナ」でコンサート

2017年1月「カーネギー・ホールで単独コンサート」

2017年 映画「WE ARE X」全世界公開

日本人男性初で雑誌「VOGUE」の表紙を飾りました。

クレジットカードにも登場しました。

とても大活躍されています。

YOSHIKIさんの原動力は何か

YOSHIKIさんが現在、背負っている原動力はいったい何なのか?

それはhideとTAIJIの夢 それは僕の夢でもあるし

生きる意味を見いだせなかった少年が、仲間と出会い共に追いかけた世界という大きな夢

天国の友たちの思いを背負って夢はまだ途中だそうです。

「神様は耐えることの出来ない人間には、試練を与えない」という言葉がとてもYOSHIKIさんは大好きな言葉で、過去を輝かせるか暗いものにするかは未来が決めるって思っていると語っていました。

まとめ

【画像】YOSHIKIの生い立ちは壮絶!幼少期の父親の死の真実は?

ご紹介させてたいだきました。

壮絶な生い立ちがあり、死ということに直面し、とても命ということを大切にかんじたれているYOSHIKIさんが伝わりました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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