神原博之の経歴や家族は?チャイやインドになぜ魅了されたきっかけは?【マツコの知らない世界】

こんにちは、ままいっちです。

神原博之さんが、マツコの知らない世界に出演されます。

神原博之の経歴や家族は?

神原博之チャイやインドに魅了されたきっかけは何?

ご紹介させていただきます。

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神原博之さんのプロフィールや経歴

名前:神原博之(かんばら ひろゆき)

生年月日:1954年7月15日?

年齢:65歳(2020年3月現在)

出身:愛媛県今治市

結婚:既婚者

指輪をされていますね。

40年間、毎日チャイを飲み続けていいます。

妻や子供についてはわかりませんでしたが、奥様には汚すから嫌だと言われているそうです。

経歴

1973年 大阪に住み始める。

1976年 印刷会社に勤務。

1979年 退社。 

1980年 25歳「カンテ・グランデ」にアルバイトとして入店。

1983年 社員となり、33年間、お茶の仕入れ、販売、卸を担当。

2015年 「カンテ・グランデ」を退社。

2016年 「チャイのワークショップ」で各地を放浪。

2017年 「チャイの旅」出版。さらに放浪エリア拡大。

2018年 東京で「チャイの学校」開催。

2019年 大阪・福岡で「チャイの学校」開催。

2020年 ひと休み中。

2004年には「カンテ・マガジン展の開催の時に、初めてチャイの作り方講習をされたそうです。

その当時は、お客様から500円いただき、5日間で4人くらいしか希望者がいなかったそうです。

現在は3000円の価格になり、大人気です。

 
 
 
 
 
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スパイスはお店でも準備してくれるというので、カルダモン(whole)、シナモンスティック、スターアニスをお願いし、僕はクローブ(whole&powder)、アニスパウダー、シナモンパウダー、ローリエを準備。これを参加者のみなさんにブレンドしてもらってチャイをつくるというもの。「スパイスは香り付けなので、少なめに。」とは言っても、みんな初めてなので少なめの量が分からない。それに、会場はオープンな場所なので、たくさん使ってもそれほど香りが充満しないので、みなさん結構多めに使ってたかな。ホールのマサラなら3g程度、パウダーなら1gでも多いかもしれないです。

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とても、チャイは人気の飲み物で、自分で作ってみたい方やスパイスを知りたい方の需要は多いと思います。

私も受けたいな~っと思いました。

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カンテグランデ店の場所

カンテグランデ店は大阪の中津が本店になりますが、梅田やなんばCITY店、靭公園店など店舗も多く展開もされています。(梅田店は閉店されたようです。)

神原博之さんが1980年 「カンテ・グランデ」にアルバイトとして入店されたのは、中津本店のようですね。

カンテグランデ中津本店

〒531-0071 大阪府大阪市北区中津3丁目32−2

1972年7月にカンテ・グランデがOpenした時は、レストランだったと聞きます。

その店があまり流行らず、どうしようかと思っていた時に、梅田に空き物件が見つかり、それが「梅地下:泉の広場店」の始まりです。

Openしたのが、1973年の12月。この時にはもう紅茶専門店になっていたようです。

その後、「カンテ」のアルバイトに「カナディアン」のマスターを紹介されて意気投合し、両店で「チャイ」をメニュー化したのが、大阪でのチャイの始まりだと聞きます。

カンテの茶葉はスリランカ産だそうです。

スリランカに紅茶の買い付けに行ったスタッフがたまたま見つけた低地産茶の茶葉(名前は不明でしたが、等級はF.B.O.P.F.)がチャイに合うかもしれないと思い、持って帰った茶葉で作ったチャイがおいしかったので、それ以後、カンテのチャイの茶葉はスリランカ産を使う事になったそうです。

インドのチャイ用の茶葉は製造工程上の理由から、当時は香りの成分が乏しいものが多かったことからだそうですね。

なので、スリランカの写真も多くあったのですね。

若い時の写真ですね。

スリランカはインドと比べ土壌が良いとも良く耳にしますね。

この本が出版されたのが、1978年2月なので、写真は1977年のものですね。

僕がカンテに初めて行ったのが1979年で、この写真に写ってるカウンター席はもうなくなって、客席になっていました。ということは、ここに厨房があったということですね。

後に西側に厨房を増築したようです。テーブル席で、当時の店長上田さんが何か飲んでいますが、チャイではなさそう。

そして、カンテグランデ中津本店のお茶の沸かし方のこだわりについてアップされています。

紅茶は水から都度沸かしたお湯を使用されています。

 
 
 
 
 
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むかしは、茶葉の大きいダージリンやアッサムの注文が通ったら、お湯を沸かし、湯煎に浸けてあるポットを取り出して茶葉を入れ、お湯を入れて3分間湯煎にポットを戻して浸けておいて、3分経ったらお客さんに出すというのを繰り返していました。その頃は、タイマーを使うということは思いつかず(というかかっこわるいと思っていたのかも)、時計を見ながら3分を計っていたんですが、注文がたくさん入りすぎると、湯煎に入れておいたことを忘れるんですよね。ホールの人も慌ててるから何がどういう順番で出ているのか伝票を見ても分からなくなるし。で、突然「あそこのダージリン、通ってる?」って訊かれて、「あっ、忘れてた!まだ湯煎に入ってるわ!」と、そういうことです。「ごめん。作り直すからもう少し待ってて、って言っといて。」今は、ポットにお湯を入れたらすぐに砂時計をつけて持って行くか、何もつけずに持って行って「あと2分ぐらいお待ちください。」とかって言うはずです。

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「怪しい館」・・近所の人はカンテをそう呼んでいた。でもこの写真では、「怪しい館」のくせにお客さんのママチャリが中村君の描いた看板前に駐輪してる。それにバイク。誰のだろう?右下には「NP中津店」の入口が見える。僕が働いていた場所です。左端にはかすかにケーキ工場の青いドアが見える。その前の舗道のガードによくケーキチームの洗濯物を干していたなぁ。入口の木箱はアーメダバードから来たものだ。チャイグラスが入っていたのかも。入口のドアの鍵は、店舗を壊した時に僕がもらったけど、どっかへ行っちゃった。昼なお暗い店内は、誰もいないと思う。陽の射し方から見て4時か5時だろう。バイトは店内で寛いでいるはずだ。ケーキ工場の奥に井上さんの家がある。井上さんがインドへ旅行中、バイトや社員が入れ替わり泊まっていた。お母さんがいたから、その警護のために。僕も2回ほど泊まったっけ。「神原くん、この金庫の鍵の番号わかる?字が読めへんから開かへんねん。」と返答に困る質問をされたり。バイトのお昼ごはんや夜ごはんは自分たちで作って食べていたけど、時々中華の出前を取っていた。天津飯とか中華丼とか。その頃はまだメニューにスパイス料理はなかったので食材が豊富になかったからね。 つまり、働いていた人はどこも変な人達ではなくて、怪しくなかったというわけだ。普通の学生と普通の社員と普通のフリーター。 怪しかったのは、井上さんとお友達だけだった。黒いマントを着たでっかいカラスのような人。アフガン帽を被った中国人のような旅行者。レゲエ帽を被った旅行代理店の人。葉山に住んでた「神秘の宇宙」好きの絵描きさん。サングラスをした強面のスリランカ人。サンガリアのCMに出てたアメリカ人。占いをやってた商店街の豆腐屋の娘。紅茶好きのゲイの人。外資系の銀行に勤めた後ハワイに移住した人。ネパールにいるようなヒッピーみたいな人とか。 人通りが少なかったし、近所の人は来なかったから、カンテがこの店だけだったらとっくの昔に消えていたはず。そうならなかったのは、梅田の泉の広場に支店を出したからでしょう。梅田のOLさん達に支えられて大きくなった。カンテが半世紀近く続いたのはある意味ラッキーだったのだ。(BGM:「時は消え去りて」Time Fade Away。ニール・ヤングの曲です。)

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神原博之さんが、チャイやインドに魅了されたきっかけは何?

神原博之さんが、なぜチャイやインドにこれほど魅了されているきっかけが気になりました。
 
インドだけではなく、ネパール、スリランカの事も書かれています。

 

 
 
 
 
 
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小、中、高、大学の間ずっと欧米のカッコ良さにしか興味が持てなかったので、1972年にオープンして、徐々にインドに接近しているカンテのことなど知る由もありませんでした。 しかし、僕の中で、その欧米一辺倒の様子が変わってきたのが1976年(22歳)ごろでしょうか。それまでずっと聴いていた英米のロックが頭打ちになって新鮮みが無くなって来ていたし、何か別のものが欲しいと思うようになっていたようです。 そんな時、24歳(1979年)で僕はカンテと出会いました。会社の同僚の女の子から「変わった喫茶店があるよ。」と教えられ、中津本店に行ったのが最初です。庭があって猫がいました。メニューの紅茶がチンプンカンプンでした。店員は若くてかっこよく見えました。「なんて不思議な店なんだろう?」とは思いましたが、まさかそんな店の店員になるなんて全然思ってもみなかった。そして半年後、僕は会社を辞めて、もう一度カンテに行ってみたくなり、友達と中二階に上がってお茶をしていたら、壁に張り紙がありました。「アルバイト募集」 会社を辞めた直後に決めていたアメリカ旅行(ツアー)が2ヶ月後に迫っていた5月のある日、貯金も無くなりかけていたし、そろそろアルバイト先を探しておいた方がいいかな?とか思い、「6月にこの張り紙がまだあれば応募しよう」と思ったその翌月、まだ張り紙は壁に残っていたのです。 僕「あのう、7月は一ヶ月間旅行でいないんですが、それでもかまいませんか?」 店長「かまへんよ。車運転出来るよね?」 僕「はい、できます。」 店長「じゃあ、明日から来てくれる?」 僕「よろしくお願いします。」 世の中が少しずつ「民族的な世界」にシフトしていた時代でしたが、カンテは既に何年も前から第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)にシフトしていて、僕がバイトで入店した1980年6月にはオーナーの井上さんはインド、ネパール、スリランカを旅行し終え、世界一周の旅に出かけている最中だったのだから驚きです。 その前年(1979年)にはネパールでの服の製作が始まり、1980年には「ヌーディストピーチ」なるブランドを立ち上げ、ネパールを拠点に本格的な服の製作と雑貨の販売に着手していたのです。まだエスニックという言葉さえなかった時代にです。 働き始めてびっくり。今まで知らなかった世界が僕の目の前にありました。ティーバッグではない紅茶、インド及びネパールの雑貨達、レゲエ音楽、それに社長の好きなクラシック音楽。今まで僕が全く手を付けたことのない世界。そこは僕にとっての未知の世界、未開のジャングルだったのです。こういう状況になると僕は燃えるのです、「知りたい!」と(笑)。 そのあとは、興味が無くなるまで道なき道を突き進むのが僕のやり方です。(何年か前の「焼酎ブーム」とか「ケーキブーム」などのマイブームがありました。) それはさておき。 1977年に発生したイギリスのパンクファッションの流行は徐々に世界に浸透し、1980年代初頭の日本に上陸。 当時の「アジアを見直そう(ファッションから雑貨やインテリア、食べ物まで)」というエスニックブームと合体して、日本全国に、特に大阪に猛威をふるいました。 1980年に始まった「ヌーディスト・ピーチ(以下NP)」は、お金持ちの道楽的な東洋趣味の服屋として出発していたので、いまいち波に乗り切れていなかったのですが、カジュアルな要素を取り入れ、リーズナブルな金額にした途端、あっという間に波に乗ってしまったのです。若い人は我先に「NP」で売ってるエスニックファッションに身を包み、こぞってカンテに通ったのでした。 僕は1983年ごろから、カンテの隣にあった「NP」の中津店(というより倉庫)で働いていて、服の卸、および服の管理と仕分けを担当していたのですが、「君もネパールに行って服の製作現場を見ておいた方がいい。」とか言われ、「えっ?マジで?」(そんな言葉は無かったけど)と驚いた僕も、その気になって、ついに1986年3月、井上さんとネパールへと旅立ったのでした。 そして、仕事の合間を縫ってやって来たここ「ナガルコット」は、ヒマラヤを見るには絶好の場所として観光客には超有名な場所です。(その時はそんな場所だとは知らなかったけど) カトマンズから車で1時間ほど行ったところに古都パタンがあり、そこからこのナガルコットの丘まで段々畑がずっと続いていて圧巻でした。だから、その時の僕は絶景のヒマラヤを撮影するのを忘れ、この棚田に心を奪われていたようです。 ところで、ネパールで一番思い出深かったのはここ・・ではなく、仕事で泊まっていたペンション・バサナでの朝です。 朝早く(5時頃かな)起きて、まだ客の誰もいない食堂のドアを開け、仕込みをしている厨房の人に紅茶を頼み、タバコを吹かし、薄暗い店内の、窓を通して入ってくる日差しの中で揺れるタバコの煙をなんとなく見つめ、入口に置いてあるトランジスタ・ラジオから流れるネパール語の放送を聞きながら、ぼ~っとしている自分。 夢の中にいるようでした。

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こちらのインスタに詳しく書かれていました。
 
やはりカンテグランデがきっかけでチャイやインドにはまったんですね。
 
 
 
 
本も出版されています。
 

 

日本のチャイの先駆けとなった大阪の名物カフェ『カンテ・グランデ』に34年勤務し、人生をチャイに捧げた神原博之さんが、あらゆるチャイのレシピ、チャイをいれるための道具や技術を解説しています。

また、神原さんがお茶に目覚めるきっかけとなった『カンテ・グランデ』での回顧録もふんだんに収録。

巻末の解説は、青春期に『カンテ・グランデ』でアルバイトをし、同店のバイト仲間によって結成に至ったロックバンド・ウルフルズのトータス松本氏が寄稿されています。

当時の面接と採用をしたのが、神原博之さんだそうで、初顔合わせから、アルバイトの空きがなかったところに採用という話になるまで、そして一緒に仕事をしたり、トータス松本氏がいつもチャイを淹れてくれていたことなど、書籍では不思議なお二人のエピソードがあります。

番組でべースの茶葉と他スパイスをブレンドして作っていた、べース茶葉のオススメがこちらになります。

 

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まとめ

神原博之の経歴や家族は?チャイやインドになぜ魅了されたきっかけは?

ご紹介させていただきました。

チャイは現地で飲むと、甘すぎるくらいですが、家庭で自分で作ると甘さを調整できるから作りたいですね。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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