こんにちは、ままいっちです。
三浦祐太朗さんの幼少期時代や高校、大学デビューまで三浦家の両親の父親、母親のエピソードが語られていました。
三浦祐太朗の幼少期!幼稚園時代から家族のエピソード
ご紹介させていただきます。
目次
三浦祐太朗さんの幼少期は両親への愛情を受けて育つ
その為に、祐太朗さんは両親の愛情を一心に受けて育ちました。
三浦祐太朗さんの父の著者:三浦友和さんのの被写体にこんなことが語られています。
二人とも早く子供がほしくて、それでも3年あまりそんな兆しは見られなかった。
妻はこういうところが妙に古風な物の考え方で、長男の嫁として失格かもしれないと、気にしたりしていた。
両親は家で全く芸能界を感じさせることはなかったそうです。
家では父親の仕事の話を、食卓とかでも一切聞いたことがなかったそうで、台本もいつ覚えてるんだろうって思っていました。
意識的にやってたんではないか?とも語って、凄いなと思っていました。
また、母親の、百恵さんにも聞いたことがなかったそうです。
山口百恵さんの蒼い時の書籍
特別扱い
この言葉が大嫌いだった
と書かれています。
これまで仕事をしているなかで、とても多かったことであったが、そうされるほど寂しいことはなかった。
それが芸能人であるとか、そこから生れる伝説めいた部分のせいで、半透明の硝子を一枚隔てて見られてしまう。
そんな思いからか、両親は芸能人とう素ぶりを一切見せなかったそうです。
とても、徹底されていた感じで、子育ての愛情がとても感じられますね。
三浦家に取材人が押し寄せる
しかし、芸能界の一躍スターということもあり、取材人が押し寄せます。
人気絶頂の三浦友和さんと山口百恵さんの二人の結婚
そして山口百恵さんは結婚してから、引退されメディアに登場されないことで、注目を集めました。
家にはほぼ毎日記者が張り込んでいたといいます。
祐太郎さんは、幼かったので記憶はあまりなかったそうですが、
買い物と母親と出かけたこきに、突撃取材を何回も受け、祐太郎さんは幼いながらに、大人が突然出てきてくる姿を何度も体験すると、怖がっていたといいます。
外に遊びに行こうと子供を誘っても、「嫌だ、お外行きたくない」と言っていました。
子供は敏感で何度も繰り返されると、外に出ると嫌なことがあるといういう意識が根付いてしまうのか、2歳頃までは特に家から出たがらない
出ても母親にべったりとくっついたまま、離れない子供になっていた。
被写体より
三浦祐太朗さんの引っ越し
三浦祐太朗さんは、ご両親に対して感謝していることがあるといいます。
それは引っ越しでした。
いざ子供ができてみると、困ったのが住環境です。
父親tなって、守るべき家庭が増えた。
ではどうやって守るのか。
私は真剣に引っ越すことを考えはじめました。
三浦友和著:相性より
当時港区高輪のマンションに住んでいましたが、国立市に引っ越しを考えました。
子供には自然豊かな町がいいと、都心から離れればマスコミが減るのではと。
当時は混乱を避けるために、祐太郎さんのお宮参りはしなかったそうです。
子供に外はこんなに楽しいんだよと教えたい気持ちが強かった。
三浦友和著:相性より
自宅から離れた公園を何か所か調べて、マスコミが来ないか辺りを伺いながら、公園で遊ばせたりしていたそうです。
はたらか見たら滑稽で意識過剰な行動だったかもしれない。
でも、真剣だった。
三浦友和著:相性より
他のこと変わらないことを、してあげたかったそです。
百恵さんも、引っ越す前には、子供を送り迎えをするのに、免許が必要ということで、引っ越す前に免許を取りにいきました。
やはり、取材人が教習前で待ち伏せされ、タクシーでいくなどと苦労がありました。
なんとか事務所の人に相談し、取材人に対して事務所側からも言ってもらい免許を取得することができました。
1987年3歳の時に、高輪のマンションを引っ越ししました。
三浦祐太朗さんの幼稚園はパパラッチに囲まれ入学式に行けなかった
三浦祐太郎さんの幼稚園の入園式は、大波乱となりました。
入園式の時は、騒動が予想されたために、運転手を頼んだそうです。
幼稚園に向かうときの実際の映像です。
事務所スタッフの運転で幼稚園に向かうときには、報道人がいっぱいになりました。
駐車場の中まで人が入り込み、車は囲まれて動きがとれなくなりました。
それでも、ゆっくりと車を出す。
砕氷船のように車は進んだ。
三浦友和著:被写体より
家から幼稚園までは、たったの1キロ弱でしがた、それが遠く感じていて、記者は追いかけてきていました。
あと、数百メートルの所で赤信号になり、車に記者が追いかけてきました。
そうすると、祐太郎さんは「怖いよ~」と泣き出していました。
怖い怖いっていうの衝撃的で覚えているそうです。
その後、幼稚園に到着しましたが、また記者がきて園の中には入れなかったそうです。
翌日、その騒動がすぐさまワイドショーで報道され、その取材の在り方に対して自粛したほうがいいと言われました。
その後も、突撃取材はあり、母は守ってくれたそうです。
三浦祐太朗さんの小学校時代
1990年に小学校に入学します。
当時も、運動会では開始1時間前には、父の友和さんの事務所スタッフが学校の前に集まり報道人と話し合い、その場所から引きあげてもらうように話をしていました。
他の子供にも、迷惑がかからないようにしていた配慮でもありました。
そして、他の子供と変わりない日常を送ります。
こうした、両親の努力もあって芸能という家庭で育った意識を持たずに育ってきたそうです。
両親がとても大変だっただろうな~と語っていらしゃいました。
三浦祐太朗さん小学校・中学・高校の同級生の言葉
三浦祐太朗さんについて小学校、中学、高校時代の同級生が祐太郎さんについて、どんな子供だったのか?語られています。
小学校1年生から4年生まで同じクラスだった武田さん
普通の小学生で特別芸能人の子供だなっていうのは全くなく普通だったそうです。
授業参観にも、百恵さんがいらっしゃったので、正直顔とかあんまりわかってなかったですが、飛びぬけてキラキラしている人がいてるんで、この人だね!間違えなくオーラが違って感じだった。
親も百恵さんに釘づけで、子供をみていなかった
って思い出を語っていらっしゃいました。
中学校と高校の同級生の梅谷さん
ある噂を耳にていました。
山口百恵の息子が来るぞ!って、本人には申し訳ないんですけど、自分の中で芸能人の息子っていうと威張ってる、天狗な感じなのかな?とか感じていました。
実際に会ってみると、あまりに普通すぎて、オーラというか・・・
お互いの家を行き来するほどで、印象に残ってるのが・・・
高校3年生で彼の誕生日パーティーを誕生日を自宅でするとなった時にのこと。
15人くらいはいて、ちらし寿司や、唐揚げやポテトとか、全部手作りで百恵さんが準備をしてくれました。
その後も、家に遊びに行くたびに料理を作ってくれました。
感謝してることがあり、牡蠣が苦手で百恵さんがカキフライを作ってくれて、そのカキフライがとても美味しくて、そのお影でカキフライが食べれるようになったそうです。
また、小学校時代にはサッカーをしていて、驚いたこともあったそうです。
三浦家に、三浦カズさんがやってきたそうです。
普通に帰ったら、カズさんがお帰り~って出てきたことだそうです。
三浦祐太朗さんの中学生時代
百恵さんを驚かせてしまう出来事があったそうです。
大事にしていたエロ本が、百恵さんに見つかってしまったそうです。
ベッドの横に隠していたそうですよ。
百恵さんは、その事に対して直接聞かず、父の友和さんが「なんか母さんがそういう本みつけたぞ~」と聞かれたみたいです。
「気持ちはわかるけど、お母さんに見つからないとこに隠そう」と父親に言われたそうです。
3日くらいは母親と話すのが嫌だったそうですよ!!
中学時代は友人に誘われて、コピーバンドに入り、中学校3年生の文化祭で人生の初ステージに立ちます。
その時には百恵さんも心配そうに見つめていたそうです。
その時に聞いてくれる快感を感じて、それがきっかけで将来は歌手でやっていきたいと感じたそうです。
三浦祐太朗さん高校時&大学時代
高校進学後は、ライブハウスでバンド活動を継続していました。
大学進学後も音楽の情熱は冷めませんでした。
やがて、就職活動の時期を迎えても、大学に入社希望先も提出しないまま、プロを目指して自作の曲を、レコード会社や音楽関係者に送りづつけました。
だが、両親が三浦友和と山口百恵ということは隠すことにしていたそうです。
なぜ隠していたかというと
両親の名前が出てしまった場合は、誰々の息子バンドデビューってされた時に、好きで自分の音楽を聴いてほしいから、そこに関係ない物が来てしまうことは、僕は本意ではなかったと語っていらっしゃいました。
両親にたよらず、自分の力で頑張りたいという気持ちがあったそうです。
当時、祐太朗さんが22歳の時、雑誌記事には、憶測が書かれていて、親の七光りと言われることのないように、自分の力で行きたいと感じていました。
だが、両親はなんていうか分からず、反対されると思っていました。
周りが就職活動をし始めて、両親も気になったらしくて、最初父から言われました。
大学3年生のある日、「祐太郎、お前就職どうするんだ?」
将来を心配した父から質問がありました。
そこで「音楽でやっていこうと思ってる」と打ち明けました。
「そうか、頑張れよ」と父親からの言葉がもらえます。
自分のやりたいことを、そうやってやらせてくれるのは嬉しいと思ったそうです。
父が母に伝えて、母親も「頑張ってね」とあんまり多くは語らなかったけど、「やりたいようにやりなさい」と言葉をかけてくれたそうです。
三浦祐太朗さんのデビューから現在まで
2008年11月
当時24歳で「Peaky SALT」のボーカルとしてメジャーデビューします。
デビューからわずか1ヶ月あまり、冬至の事務所の社長から連絡があり、両親のことがバレたと言われたそうです。
嫌だったそうですが、注目してもらえるのはありがたいなとは、思うようにしたそうです。
そかから、祐太朗さんとバンドが一遍し、バンドは2年で活動休止になったそうです。
そして、ほぼ無職になってしまいます。
その当時は両親は全く何も聞いてこなかったそうです。
その2年後、松山千春さんの舞台のオーデション832人の中から本人役を射止めます。
これをきっかけに、ソロデューします。
ショッピングモールの無料ライブなど・・・
フリーライブを計300回以上、地道な活動を週刊誌に揶揄されることもありました。
2015年30歳の時に、母の山口百恵さんの名曲「いい日旅立ち」を人生で初めて歌いました。
すると、その歌が人生の転機になりました。
2017年7月「I’m HOME」が全て母の百恵さんのヒット曲であるカバーアルバムが発売されます。
母百恵さんのカバーアルバムをやってみないかと話がありました。
母のファンになる方に失礼にあたらないのかなど悩みました。
アーティストになって10年、母に相談するのが初めてでしたが相談しました。
私が生きてるうちに、カバーアルバムが出て、そのカバーアルバムが息子の声で聞けることは、すごく嬉しいこと
だよって言ってくれたそうです。
その一言が母を知らない世代の方にも「昭和ってこういう良い曲があったんだ」と知ってもらえるきっかけになるように、歌を歌おうとか、前向きになる一歩を支えてくれたのは母の言葉でした。
現在36歳
本当に最近思うんですが、やっぱり母の血が泣ばれてるっていうことを強くおもっていて、息子であることをすごく誇らしいし、この言い方が正しいか分からないですが、僕は両親のファンなんですよ、本当に。
ファンなんで、カバーを出来て喜んでくれる人がいて、すごく自分の中では、有難いことです。
すぱっとやめて、2人を息子を育ててくれたこと。
人間としてかっこいいなと思いますね。
まとめ
三浦祐太朗の幼少期!幼稚園時代から両親の家族への愛情が凄い!画像【金スマ】
ご紹介させていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
関連記事はこちらから
コメントを残す