志村けんの生い立ち!幼少期からドリフ弟子入りまで!家族の父や母について【画像・金スマ】 | Mamaicchi

志村けんの生い立ち!幼少期からドリフ弟子入りまで!家族の父や母について【画像・金スマ】

金スマで志村けんさんの生い立ちから芸人になるまでが報道されていました。

志村けんの生い立ち!幼少期からドリフ弟子入りまで!家族の父や母について【画像・金スマ】

ご紹介させていただきます。

志村けんさんの家族構成

志村けんさんの家族構成は、父親(憲司)、母親(和子)、長男(和之)、次男(美佐男)、三男(志村けん)の5人家族になります。

志村けんさんの家庭は一切、笑いのない家族だったといいます。

1950年 東村山市に3人兄弟の末っ子として生まれました。

幼少期の志村けんさんと、兄の2人になります。

長男:知之さん

次男:美佐男さん

三男:康徳さん(志村けん)さんになります。

本命ではなく、志村けんは芸名でした。

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志村けんさんの生い立ちや幼少期

志村けんさんの、もっとも恐ろしかった存在は、父親(憲司)さんだったそうです。

父親(憲司)さんは、当時、小学校の教頭をやっていて、校長の試験を受ける状態でした。

そして父は柔道の5段をもっていて、背は小さいけど、体ががっちりしていたそうです。

教頭を務める父は、真面目で寡黙な性格で、志村けんさんとはかけ離れていて、冗談も通じない性格でした。

志村家では、父の存在は絶対でした。

とはいえ、幼い志村けんさんは父の目を盗み、イタズラをしていました。

小学校に行く途中に、ポケットに塩を入れていたそうで、畑があって朝露に濡れたトマトを食べたり、お腹が空いてくるとスイカ畑のところにいって、図工の彫刻刀でスイカのケツを丸く開けて、真ん中の美味しいところだけ頂いていたそうです。

そして、くり抜いた蓋をもどしておいたら、分からなかったそうですよ。

また、駄菓子屋で、悪さがみつかった時には

「お前は先生ん家の子供だろ!しっかりしろ!」

「今回はあげるけど、もうするんじゃねぇぞ!」と怒らたそうです。

しかし、許してもらった駄菓子を開けたら、カビが生えていたそうです。

どこに行くにも、昔から先生家の子どもと言われていて、イタズラをするといけないんだってイメージを周りに持たれていました。

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志村けんさんが笑いの道に進んだきっかけは?

これほど厳しい父がいて、志村けんさんがお笑いの道に進んだきっかけは何だったんでしょうか?

幼い頃のある事件が始まりでした。

小学校3年生の運動会の時でした。

徒競走の時に、順番を待ってるときに便意がもよおしてました。

何度も「先生・・・」と言いますが、先生は「ちゃんと並んでおきなさい」と言われ、また順番に並びますが、志村さんの肛門は限界寸前でした。

そして、徒競走の順番がきて「よーいドン」ってみんな走ってるんですが、志村さんだけ、走らず泣きはじめ、便をもらしてしまいました。

先生は「志村どうした?」とといいますが、あまりにも情けなさに、泣くことか出来なかったといいます。

そして、学校でついたあだ名が「うんこ垂らし」と言われまくっていました。

とても屈辱的だったそうです。

なんとか、学校でお漏らしのイメージを払拭したいと思っていました。

 

そして、たまたま耳にした1枚のレコード

小学校4年の時に友達の家に入ったら、柳家金語楼さんのレコードがあり、聞いてみようと蓄音機で聞いたら、酔っ払いの落語で、それを友達と覚えてない?とやったのが、酔っ払いのコントでした。

そして、学校でも披露することになります。

そうして、いじめられなくなるためにとった行動が、クラスのひょうきん者になりました。

そして、初めて初披露したのは「酔っ払いコント」でした。

数十年後に志村けんさんの十八番となる酔っ払いのコントになりました。

志村さんは、そんなに記憶がないそうですが、相方は「ウケたんだよあれ」って言っていたそうです。

そして、体育の授業の時も一番前で小さかったそうですが、先生のいつも前で、同じようにしていると、みんなが爆笑したりと、ひょうきん者でした。

そして、次第に湧いてきた感情が、「人を笑わせるって、気持ちいい」

とお笑い魂の目覚めでした。

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志村けんさんのコメディアンお笑いに進むきっかけ

昭和30年代に日本に爆発的に普及したテレビとの出会い

今まで町の一角にしか見れなかったテレビが、ついに志村家にもやってきたそうです。

志村けんさんが夢中になっていたテレビが、雲の上団子郎一座」でした。

由利徹さん、八波むと志さんのお芝居でしたでした。

そして、ある決定的な出来事が起こります。

笑ってテレビを見ていると、茶の間に父親がやってきます。

そして、いつものように緊張感が走ります。

しかし、テレビを見た父が、ぷっと笑ったのでした。

親父が笑ってる!!

あまり声を出して笑うことがなかったといいます。

この人達はすごいな~こんな暗い家を笑いで包むってすごい!と思いました。

その辺りから人を笑わせる喜劇人に憧れたそうです。

コメディアンになる想いが強くなってきました。

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志村けんさんの父が交通事故に

志村けんさんが中学生になりました。

志村けんさんが、お風呂に入っている時に、突然、物音が聞こえてきました。

志村けんさんが、慌てて外にでると、バイクで倒れている人がいました。

家の付近は、とても事故が多く週1くらいで起きているそうで、その事故を「誰が最初に見にいくか」競走でした。

志村けんさんが、外に見に行った時に、小さいバイクが倒れていて、「大したことないよ~」と母親に言い見に行き、母が次に見にきまいた。

そしたら、母親が弁当を包んでいる風呂敷に気づき、病院にいきました。

父親は1週間ほどで退院しましたが、事故から3年経ったころに、父親にご飯を志村さんが持っていくと、「どちらさんですか?」

厳格でしっかりした父親が「飯まだかな~」などとその繰り返しだったそうです。

父親の憲司さんは46歳でした。

事故の後遺症による記憶障害だったといいます。

父は体が丈夫でしたので、志村けんさんが居てないときには、母親に乱暴したりと大変だったそうです。

調べたら、記憶する脳の部分を血が圧迫して記憶喪失っぽくなっていたそうです。

教員を休職しました。

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志村けんさんは、ドリフターズに加のエピソード

志村けんさんの高校時代

夢中になっていた世界的バンドがきっかけでした。

そのバンドは、ビートルズでした。

中学校の時から、ビートルズが好きで仲間とギターをやったり、とても大好きでした。

高校生の時には、マッシュルームヘアにしていました。

1996年6月、志村けんさんが高校2年の時に、ビートルズの初来日公演しました。

そして、志村けんさんの同級生の女の子がビートルズのチケットが当たってもっていました。

志村けんさんは、その同級生を説得して「俺はすごいビートルズが好きで知ってるんだ」

「お前より全然詳しいんだんだから」

「お前が行くより、俺が行かないとダメだ!」と説得し、なんとかチケットを手に入れていったそうです。

スゴイ説得力ですね。

当時のコンサートは40分で、アンコールなしだったそうですよ。

本当はいけないけど、ボイスレコーダーでイスの下に録音していたが、隣の応援しか聞こえなかったそうです(笑)

音楽が好きで、音楽に絡めた笑いという点でドリフターズのいかりやさんに弟子入りすることを決めました。

東村山に住んでいて、どうして弟子入りできたかというと・・・

その当時はまだ、雑誌の付録に芸能人の住所が出ていたそうです。

とても驚きました!!

いかりやさんの住所がこの辺だろうと、アポなしで高校3年生の時に行きます。

雪の降る2月のことでした。

午前11時頃、マンションのドアを叩くと不在で、妻が出てきて「いかりや長介さんに弟子入りしにきました」と志村さん。

「主人は仕事に出てて、人は足りているから諦めたほうがいいですよ」と断られました。

諦めかけた志村さんですが、こんなことで諦めたらコメディアンなんて無理だと諦めませんでした。

雪の中で12時間待ちました。

その時、いかりや長介さんが帰ってきました。

ドアをノックして初めてあった時の印象は・・・

顔面の迫力に話すのが精一杯だったそうです。

ドリフターズの付き人をさせてください!!

「12時間待ち続けた答えは、今辞めそうなのが1人いる、そしたら連絡する!!」

そうすると、一週間に後楽園ホールにすぐ来い!と連絡がありました。

今すぐ準備してこい!!

高校卒業を待たずして、いきなりの出来事です。

ただ気がかりは、記憶喪失になった父のことだったそうです。

父の世話を家族に押し付けていいのかと悩んでいました。

そんな中、背中を押してくれたのは、母の言葉「お父さんのことは気にしなくていいから頑張ってきなさい」との言葉でした。

そして志村けんさんの名前は父の憲司さんから芸名をもらっています。

そしてドリフターズに加入しました。

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長い下積み生活

辛い長い下積み生活でした。

当時ドリフターズの付き人は志村さんを含め3人でした。

一番下っぱの志村さんは、楽器運びとセッティングに始まり、着替えの手伝い、食事の準備

当時サラリーマンの月給が3万だった時代に、志村さんの月給は5千円だったそうです。

メンバーの出前をとったとき、付人同志でラーメンのおつゆがちょっとづつ残り、それをかきあつめて1人前にして飲んでいたそうです。

早朝から深夜までお世話に追われる毎日でした。

寝ることも出来なかったし、今にみてろ!!という決意をしたのが、志村けんさん19歳の決意でした。

ドリフの付き人になって数か月になった時、8時だよ全員集合が始まりました。

そして、いかりや長介からコントづくりのノウハウを学びました。

付人になって3年になったころに、いかりや長介さんにお願をし22歳で「マックボンボン」としてデビューします。

同じ人とコンビを結成しました。

小柳ルミ子さん、天地真理さんの前座をしていました。

ステージの感覚をつかむと、観客にうけてデビューから1年たらずで、レギュラー番組をもてることになりました。

そんな中、母親から電話があり、父が亡くなったと。

収録直前に訃報があり、父は享年54歳で他界しました。

母に顔を見てあげてと言われましたが、顔を見ると崩れてしますと思いみませんでした。

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志村けんさんドリフターズに加入

そんな中、転機が起こります。

ドリフターズのメンバーの荒井注さんの脱退です。

ドリフターズの新メンバーをどうするのかで、選ばれたのが志村けんさんでした。

ドリフの中のメンバーに入るのは想像もしていなかったようです。

なぜ、いかりや長介さんは志村けんさんを選んだのか?

荒井注が体力の限界を理由に脱退を宣言した。

説得しようと試みた。しかし彼の気持ちは覆らなかった。

急遽、荒井にかわる新メンバーを育てないといけない。

志村けんしかいない。

志村は他の付き人とは違い、どん欲に笑いを盗もうとしていた。

また作ろうとしていた。

ともかくネタを考えることができる奴だった。

いかりや長介さんのだめだこりゃに記載されています。

1974年3月24歳のとき、見習いとしてドリフターズに紹介されました。

3ヶ月は見習いだったそうです。

テスト期間で、見習いともテロップには書かれていました。

視聴率が50%というドリフターズで、観客席の反応は誰だ?という反応だったそうです。

志村けんさんはプレッシャーを感じて余裕がなかったそうです。

正式にドリフに入るまでは、いかりや長介さんは志村さんの今後のことで、遅くまで話していたそうです。

荒井注さんの抜けた穴をうめようとしていたのか、ピアノの後を引き継げるように、いかりや長介さんの応接室で熱心に練習もしていたそうです。

そして、3ヶ月の見習い期間を終えて正式にドリフターズになりましたが、人気があったわけではなかったのです。

加藤茶からの将棋の誘いから、歌(東村山~の)唄を歌った時、これを舞台で歌えとなり、ブレイクすることに。

おおうけでした!!

子供達の間でも大流行りになりまいた。

そして志村けんさんは、人気ギャグを連発するようになりました。

木曜会議という厳しい会議では、いかりや長介さんがOKと言わないと帰れなかったそうです。

地方でいかりや長介さんに誘われてバーにいきました。

「いかりや長介さんがもうしんどいんだよ」

「お前がドリフをまとめてやってくれないか?」という初めての弱音だったそうです。

ゴリラ-死ねという観客の言葉もしんどくなっていたそう。

全員集合が終わるとのことで、志村さんと加藤さんだけ二人でやってほしいと言われ、5人から2人に抜擢されました。

1986年1月からは「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が放送されました。

家庭のビデオも紹介する番組で、大好評になりお茶の間を楽ませてもらえました。

とてもお笑いの世界に苦労もありましたが、才能があった方でした。

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まとめ

志村けんの生い立ち!幼少期からドリフ弟子入り!家族構成の父や母について

ご紹介させていただきました。

最後までご覧いただきありがとうございます。

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